アテネの思い出
はじまり
授業について
アテネの大学生
いろいろな学習
同級生と進学のこと
西塚先生
アテネの教育やあり方は、やはり西塚茂雄先生の際立った個性に支えられてあったと思う。先生の本分は数学教育であろう。矢野健太郎の著作から、ご自身で執筆・編集した『幾何の生いたち』を経て、中学も高学年では岩波全書の『代数入門』などを使った。その先見性や質の高さについて、私自身は判断できないのだが。しかし、先生が教室で語る熱のこもった口調には、自分の信ずるものを伝えようとするものにのみ宿る力があったと思う。若い自分に病んだ結核のために、肺の一部除去をして、時々息が切れてしまうのだが、そんなことも何処かに忘れたかのように、我々ちびっ子を相手に飽くことなく、熱弁を振るうのだった。代数の問題の解法に悩んで、深谷のお宅に夜電話して、指南を受けることもあった。察しの悪い生徒を相手に、懇切に教え続けることがどうしてできるのだろう。先生が既存の大学ノート(これも今では死語か)が使いにくいと、特注されたA4版のノートも懐かしいものだ。余分な罫などが切ってなくて、クリーム色のページには大きな枠と横に見出し欄のようなもの、さらに下部には小さめの備考用の枠があるだけ。数学の証明などを書き込む用途に適したデザインを考案されたのだろう。この大きめのノートに解を書き込んでゆくと、何か大事な宝物が蓄えられてゆく気がした。証明の終わりにはお決まりのQ.E.D.を書くのである。これがラテン語のquod erat demonstrandum「以上が証明されるべきであった」の略号であると知るのはずいぶん後のことだった。教室で解答を示す際によく口にしたのは、エレガントな解法ということで、何がエレガントなのかよく分からないのだが、ゴテゴテしないでスッキリとまとめられた解をさしていたのだろうか。先生はフランス文化もお好きであった。ポアンカレをはじめ名だたる数学者や科学者を輩出した国であったし、先生の敬愛した日本の数学者矢野健太郎などもフランスで学んだ。経済合理主義の優るアメリカなどには、肌が合わないようで、ヨーロッパの古くて新しい学問の伝統に傾倒するところが大きかったように思う。
先生は現代社会の世情を憂うる憂国の士でもあった。先輩の森田哲夫さんや現塾長の西塚直樹さんとも近頃話すのだが、基本的には戦後の民主主義を背景とした、旧制高校風の教養主義が先生のバックボーンであったのではないか。クラスの中で、高校時代と思うが、一度アテネが大事にすべき書物を一冊あげてみよう、という問いかけがなされた。僕は大江健三郎の『ヒロシマノート』をあげたのだが、はずれ。梅棹忠夫の『知的生産の技術』を挙げられた。戦後の日本社会の倫理のあり方というようなことを重視したつもりが、むしろ合理的な情報処理の方に傾いたことに不満を覚えた。しかし、その後に進学先の京都、後には東京からアテネを訪れると、先生はいつでも事務室の奥の応接室に快く招じ入れて下さった。そして、実に楽しげに、しかし沈鬱に昨今の教育とそれを取り巻く社会のあり方についての観察を開陳するのであった。駅弁大学などという呼称が生み出されるように、大学の大衆化が進むなかで、マスプロ教育や実学主導の法学部、経済学部をお嫌いであった。直樹さんは、アテネの理念として父君でもあった先生の「物豊かで心貧しい国にせめて知的創造力の逞しい子ども達を育てあげたい」という言葉を掲げている。先生の認識では、戦後の復興を経て高度成長をまっしぐらに進んでゆく日本社会は「心貧しい国」であったのであろう。これに抗うような教育がいかに可能かということを終生求めておられたと思う。
終わりに 1954年 1972年 1978年 1985年 – – –竹尾茂樹さん(1954 年生まれ)
アテネのことをどこで知ったものか。一九五四年に名古屋で生まれた自分だが、四年生の時に桑名に越して日進小学校に転入した。旧制の師範学校出の母は教育熱心で、どこからか聞き及んできたのであろう、五年生から始まる塾に入れようとしたものと思われる。近くには稲イン学院という学習補助の塾があったのだが、学校とは違うユニークな教育を行っているという噂があって、アテネを受けようということになった。当時は選抜があったのだ。アテネで行う学習に向き不向きがあるという考えによったもののようである。一日がかりの今風に言うならワークショップを行なって、最後は走り井山の公園で絵を描いたり、ピクニックをして解散であった。落とされたらどうしようと、いささか緊張を伴った一日であった。結果は2クラスにそれぞれ二〇人くらいが受け入れられただろうか。クラスは桑名駅裏に隣接する、かつてはドレメなんとかという前には裁縫教室を改修した木造二階建ての中であった。線路ぎわで、駅のホームからも子どもの出入りが見える場所であった。程なく新築された建物に移るのだが、それは打って変わって赤い煉瓦が敷き詰められたエントランスから入る、コンクリートの二階建てで、階下には事務室と応接室(西爺の居室)、駐輪スペースが広くとってあった。子供たちは桑名のいろいろな学区から自転車で通う者が多かったのだ。ここは屋外広場でもあって、駐輪の自転車がない時には、子どもたちの恰好の遊び場になっていた。当時コンクリート打ちっ放しの建造物はまだ珍しくて、何かハイカラなところで過ごせることが嬉しかった。流行っていたマジックボールを持参して、二階の踊り場から投げたり、駐輪場の梁をバスケットゴールに見立てて飛び上がったりと、いろいろな遊びを考案したものである。階下に設けられている研究室のような小部屋には書類棚や書籍が配置されていて、新築のコンクリート壁の匂いと混じった不思議な香りを蓄えていた。庭の植栽も蘇鉄の一群れが砂利の中から三本ばかり枝を広げて立派に見えた。西側の二階の壁面には、青銅のアテネの女神像が掲げられていた。東京芸大の淀井敏夫教授の作品であって・・・そもそもアテネの女神が飾ってあるのは、古代ギリシャで武をもって立ったスパルタに対して、知性と民主主義で抗したアテネの守護神で・・・と西塚先生は疲れを知らず懇々と説明したものである。田舎の小学生は、わかったような、わからないような、しかし青銅の像が何かありがたい光を帯びて見える気がしてくるのであった。
小学生の間の授業は、数学・国語・英語の3教科であった。数学は西塚茂雄館長、国語は高瀬先生、のちに松岡先生とコンビで担当、英語は田村先生にのちに石田先生が加わった。少し若い石田先生をのぞくと、みな恰幅のいい、背広姿の先生方で(西塚先生は除く)ずいぶんお年寄りに習うのだなぁ、というのが最初の印象であった。のちに分かるのだが、大抵は桑名高校などで教えるかたわらに、西塚先生の教育の考え方に賛同してアテネでも教えていた熟練の先生方であった。田村先生は、まだアルファベットも知らない我々を相手に、根気よく英語の初歩の手解きから教えてくれた。ジャックとベッティが案内役の英語教本が、われわれの最初の英語との接触である。田村先生は能書家で、黒板せましと英語の綴りを書くのだが、その見事な筆跡に呆然と見とれて、あんなふうに英語が書きたいものだと憧れた。中学時代に英語検定試験を受けてみると、口述試験の審査員はなんとその田村先生ニコニコと笑いをたたえて向かいに座っていて、敵地で味方に遭遇したような気になった。石田先生はダンディーな長身で、低めの声も良かった。英語文法をとっくりとシステマティックに教えて下さる合間に、岩波新書を読みなさい、読んでわからなければ、傍に「積ん読」だけでもいいのです、などと知恵を授けて下さった。どこから聞いたものか、令夫人がミス亀山であったというので、われら思春期に入ろうという中学生はどんな見目形かとさかんに想像を逞しくしていた。高瀬先生は古文の文法の教科書を精読する一方で、徒然草や枕草子などを読んでいった。穏やかな悠揚迫らない口調で、しかし古典的な日本語の格調の高さに、子どもながらに感じ入ったものである。松岡先生はやや対照的で、万葉集の購読、さらに会津八一の和歌を便りに、奈良大和の古寺への想いを語って下さった。一時期、アテネの中で百人一首のブームがあって、競技かるたの訓練をして奈良などの大会に出かけてもいたのはこのような下地が影響したのだろう。東京は伊勢の国からはやや遠く、京都・奈良といった近畿の都の方に引き寄せられる感覚が養われたような気が今ではしている。
これまでには専従のクラスを持った先生方を想起したのだが、それ以外に助手のような形でアテネのクラスを持った人たちがたくさん出入りしていた。すでに大学を終えて研究者の道筋を歩んでいる方、あるいは現役の大学生で名古屋などで通学しながら、アテネの後輩にも接した人たち。共通するのはいずれもアテネの卒業生であったことである。森川重昭さんは中国文学専攻であったが、大学院の合間に貝塚茂樹『諸子百家』を読んで下さった。森川さんは、まだ独身で宿直をかねてアテネの一室に寝泊まりもしていたのである。内藤さんは、川端康成『美しい日本の私』の日米訳を。ノーベル賞受賞のときのスピーチである。後に大江健三郎はこれをもじって、あるいは皮肉も交えたのだろう『曖昧な日本の私』という記念スピーチを行った。あるいは後藤修平さん、高木さん。大阪の医大から帰省した森田好樹さんなど。また東京の女子大を出て戻ったばかりの福田芳美さん。男性の多くは黒い学ラン、あるいは背広を着て折り目のついたズボンで、ジーンズなどはなかった。福田さんは若い女性の珍しいところに、おしゃれで華やかで、押し出しも強くて、生意気な小学生の我われわれもタジタジであった。西爺の秘書役という感じで、ぱっちりと大きな瞳に、つんと尖った鼻先、そばかすが少し浮いた頬などを、東京から帰った人はオシャレなものだと感心していたのだ。女性というと、ジュディ菱川さんは、ネイティブの珍しかった桑名で英語のクラスをしばらく持って下さった。夫君が桑名在住企業であった由だが。アメリカのグラビア写真の切り抜きをもとに、自分で物語を作ってみなさいとか、学校のクラスではあり得なかった授業と、先生のもたらす西洋的な雰囲気に、何か心ときめいたものである。男の大学生の先輩に胸ときめきはしなかったけれど、名古屋や大阪、東京という大都市にある「大学」に身をおいて、学問をし、あるいは友だちづきあいや遊びをするという生活が眩しく、いずれ僕たちもそこをめざすのだと、将来を見わたして思いを馳せるのであった。
通常の授業は以上のとおりだが、それ以外に夏休みの時間をつかった特別のプログラムやいろいろ実験的な試みがなされていた。中一の頃だろうか、アテネに泊まり込んで化学の実験をした記憶があるが・さて何を実験して、考えたものか、記憶に残っていない。ただ、ふだんには授業が終わるとさっさと家路を急ぐのが、クラスメートとそのまま残って一晩明かすことが、何か特権を与えられたようで、鼻高々であった。屋上に上がって星座の観測もした気がする。今思えば、西塚先生は新しい試みが大好きで、そのような芽を伸ばそう伸ばそうと子どもたちを励ましていた。高校に上がると、常設クラスも少なくなって、階下の小部屋でごく少人数のクラスが持たれた。時々は西爺のつてで、外部のゲストが講演会を開くこともあった。精神科医でエッセイも書いたなだ・いなださんが招かれて話をした。お嬢さんがフランスとの混血で、自分のことをmon coeur inonocent et sauvage(自分の心持ちはひとずれしなくて引っ込み思案)と言ったということなどをおっしゃった。これがフランス語というものか、と感心した。西爺は、なださんが駅のプラットホームで待つ間に、吸い終わったシケモクを自分のズボンの裾の折り目にちょっと入れた、という所作を見逃さずに、さすがに文明人は違うと述懐していた。講演のテープ起こしをなぜか指名されて、しかし遅々として進まなくて、難儀した。なださんとは、後に職場の同僚(明治学院大学)になったのだが、その時のことを打ち明けることもなく、お別れをした。
小学校五年で初めて顔を合わせて、そのまま長いと高校までクラスを共にするということは、公立の中高などではあり得なかった。名古屋などの都市と異なり、北勢地方の中等教育を担ったのは、主に公立校であった。まれに名古屋の東海校など、あるいは暁中学・高校にゆくものもあったけれども、ほとんどは地元の学校にそれぞれに分かれて進学するのであった。高校進学に際しては、桑名高校か、やや遠いが進学向けの四日市高校かという選択肢があった。六〇年代に入って、進学熱といわれる現象が出来して、より良い大学教育を受けることが、将来へのパスポートと目されるようになったのである。大学への進学率もこの時期に飛躍的に伸びている。陽和や光風といった市内の中学に通うクラスメートの中でも、進路の選択は中心的な関心事になった。西塚先生は、こうした昭和の立身出世主義ともいうべき風潮に皆が靡くことに一石を投じた。進学志向の四日市高校より地元の桑名校へ、という呼びかけである。手元にはもはやこの論文がないのでよく確かめられないが、高度成長に波長を合わすかのような、拡張的な学歴第一主義を批判したのではないか。今ならば、地域主義という文脈で地元高校の教育の大事であることを論じるであろう。当事者の我々は、中学生ながらに、しかし旧帝大、あるいは医学部などへの志望を抱いて、多くは進学校を選んでいった。
小学校から中学にかけて、アテネの課題の一つは岩波少年文庫をできるだけ多く読むというものだった。一九五〇年創刊で、六一年までに一九三冊が刊行されている。これを一冊読むごとに、感想なり何か思うところをノートにつけさせられた。クラスの出来高を個別にグラフ化して、一覧できるようにもしてあった。ある時にはサン=テグジュペリ『星の王子さま』が特に話題に登上った。別の時にはドリトル先生シリーズがブームに。オシツオサレツという双頭の珍獣を算数の問題に西爺が使ったことも起因するのだろう。一覧表にして読む進度をあおるのは、点取り競争の教育に距離を取るべきアテネの理念に反するのではないかと、同級生の福森さんは勇敢にも批判を試みた。われわれ男子生徒は、現実に迎合的で、アテネとその背後にひそむ岩波の知的権威を前にして、岩波少年文庫は読むべきものなのだろうと疑いも持たなかったことを、なんとなく後ろめたく思ったものであった。気骨のあった福森さんはどうしているだろう。
もう一人同級生について書いておきたい。光風中学から四日市高校、京都大学理学部に進んで海洋生物学を専攻した中村宏くんだ。大学院を出てからは長らく民間企業の研究センタ―に勤務していた。白浜の研究所にいた時には、アメフラシを研究していて、天皇(昭和)と同じテーマだととぼけていた。一九九五年に起きた阪神・淡路大震災の後に、被災した人々の生活再建が大きな問題になっている際に、公的資金を投入する運動を支援しようといろいろな試みがなされた。当時宇宙飛行を行う予定であった毛利衛さんに勤め先のつてから中村くんが働きかけて、宇宙から激励のメッセージを送ってもらった。その後の東日本大震災後に、被災地域の海洋調査を精力的に行ううちに病に倒れて早逝したのである。東京水産大学(現在の東京海洋大学)に移ってからは地域の生態系との関連をテーマにした研究をしていたようだ。科学の認知をもって社会課題にいかに取り組むかという姿勢をじつに早い時期に示していた。大学院時代には、動物学の日高敏隆さんの研究室に入り浸っていたが、西塚先生の薫陶をよくついだ教え子の一人であった。
アテネの沿革のなかでも触れられているルービックキュウブについては、筆者がフランス留学時代にひと方ならずお世話になったクニエさん一家が来日した際に、日本でまだ発売されていなかったものをお土産に持って来たものであった。クニエさんはフランスのMITと称されるエコール・ポリエクニックの卒業で、理工系であった。先生はこのクニエ一家がお気に入りで、ルービックキューブのお土産はまさに打ってつけであった。お嬢さんのみゆきさんは、のちに霊長類学者になって、京都大学にも滞在したことも奇遇である。
アテネで過ごした時期について書けという依頼を西爺のお孫さんにあたる美尾さんから頂いた。それに先駆けて、一一月に毎年開催される講演会に呼ばれて、「翻訳できない『日本語』の面白さ」という題で話した。こうした一連の経緯のなかで、一〇代をすごした桑名の町を背景として、ほぼ毎日通っていたアテネの存在が自分の今日に与えたインパクトを考えざるを得なかった。大学では文学部を選び、フランス文学という、自分にとっては夢のつづきのような学問を専攻した。経理畑で実務家の父にはじつに苦々しい選択であったようだ。大学で教えるようになって、それも四十年という歳月を経てしまった。その過程でくり返し甦ったのは、アテネで片鱗に接した主知主義的なものに価値をおくということであったように思う。西塚先生は「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言い回しが嫌いで、ある時期にはこれを検証する反論を書いていたと思う。人間の身体環境を蔑ろにできるものではないけれど、人間を人間たらしめているのは、その人の精神に他ならない、ということを身をもって僕らに伝えてくれたのではないか。僕の長口上はここで終えますが、同級生をはじめ、先輩・後輩諸氏は、また別の角度からアテネの歴史に光を当てて、その意味を語っていただきたく思います。
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