私は、桑名市の海側にある城南小学校に通っていましたが、小学校6年生の時に、当時、桑名駅西にあった木造のアテネ塾に自転車で通い始めました。西塚茂雄先生に初めてお会いして、その独特の風貌や雰囲気に何やら不思議な気持ちになったことを思い出します。そして驚いたことに、当時の学校で教えていたこととは全く関係なく、「① 岩波少年文庫をできるだけたくさん読む(必ず読書感想文も書く)、② 数学を好きになる、特に「数の生い立ち」「ゼロの発見」などの本を読みながら、あわせて図形・幾何の問題を何通りもの方法で解く、10進数と2進数の変換を手の指の折り方で覚える(これは今でもできます)、大きな数の素因数分解をして素数を自分で見つける」などの授業が行われていました。当時の小学校ではまだ教えていなかった英語の授業もありました。
西塚先生は、いつも「私立校ではなく、地元の公立校に行きなさい。より深いことはアテネで教えます。」と言われていましたが、私は、私立暁中学校、公立だが地元ではない四日市高校に行きましたので、いわゆる「アテネの劣等生」で、私の母も含めて西塚先生にいつも叱られていました。そんなある日、西塚先生から「今度の休みの日に深谷にある自宅に来ないか? がまの穂取りに一緒に行こう」と誘われました。私は「また叱られるのかな?」と思いましたが、思い切って先生のご自宅を訪問しました。先生は小さな舟を持っておられて、近くの川で舟の中から付近に群生しているがまの穂を切って集める作業を私も一緒に手伝いました。その日の夜は先生のお宅で夕食をご馳走になりました。これは今も不思議なことと思っていますが、先生は私に「無駄と思えるようなことにも意味があるのだよ」と諭されたのでしょう。
アテネで学んだことはいっぱいあるのですが、特に思い出深いのは、島崎藤村の「夜明け前」を読んで、それを読了した人だけが夏休みに馬籠・妻籠の木曽路を歩く一泊旅行に連れて行ってもらえる行事のことです。これは高校1年生の時だったと思いますが、「夜明け前」は2部構成の長編で内容もなかなか手強く、直前まで読了できていなかった私や他の数人は、結局、アテネ会館に泊まり込んで蚊に刺されながらやっと読了し、何とか木曽路旅行に連れて行ってもらいました。この夜明け前の第一部に描かれる皇女和宮ご一行の行列が(将軍家茂に嫁ぐため)中山道を通るシーンは強く印象に残っていますが、江戸末期のこの出来事の時代背景やその後の激動のことまで当時は思い至らず、あとになって幕末の慶喜などのドラマを観るたびに、アテネ時代の「夜明け前と木曽路旅行」のことを思い出す次第です。
「アテネで習ったことは大人になってから役立つ」とよく言われますが、本当にその通りで、就職していた会社(KDDI)の知人がアフリカ・マダガスカルに行って撮ったという巨樹バオバブ写真の個展開催時には、アテネで皆で読んだ「星の王子様」を大変身近に感じましたし、娘の鹿児島大学時代に、鹿児島市からレンタカーで海岸沿いに西に走ってたまたま坊津に着いた時に、「この地に鑑真和上が漂着」という記念碑を見つけて、アテネで読んだ「天平の甍」の話を鮮明に思い出したりしました。
手の指で覚えた2進数は、その後のコンピュータ全盛時代には当たり前のこととしてその重要性がよく理解できましたし、素因数分解で苦労した「素数」に関しては、数学のリーマン予想の謎の解明がまだ続いていることや、宇宙や星の真理と素数が深く結びついていそうだという研究成果に今も興味を持ち続けおり、私が宇宙大好き人間になった原点に素数があったような気がします。
また、私のアテネの同級の皆様(このコーナーで紹介されている森田好樹さんや森田哲夫さんも同級です。残念ながら亡くなった方も多いですが・・)には、アテネでの通常の勉強だけでなく、口角泡を飛ばす議論をしたり一緒に遊んだことも含めていろいろ触発されました。また、アテネ卒業の先輩諸氏からも新鮮な授業も含めて多くのことを教えて頂きました。
このように、アテネで学んだ多くのことが、私の人生の幅を拡げ豊かにする上で今も大変役立っていることは間違いありません。
あらためて、アテネと西塚先生に深く感謝したいと思います。 – – – 1975年 – 2024年安田豊さん(1950年生まれ)
有難うございました。
プロフィール
学歴
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職歴
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KDDI研究所会長、KDDI財団理事長。–